フィラデルフィアのEqoがプロになるまで

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Shadowburnを差し置いてフィラデルフィアのスターティングロスターとして彗星のごとく現れた、Josue “Eqo” CoronaがOWL公式サイトで紹介されていたので、そのまとめです。

”https://overwatchleague.com/en-us/news/21590505/eqo-s-long-road-to-pro”

※公式日本語版がアップされたら記事消します。

コロンビア出身。Eqoが3歳の頃に芸術家であり教授でもあった父親と兄とともにイスラエルに移住する。

父親は家族を養うため、それまでの職と芸術を捨て長時間の肉体労働に従事する。イスラエルでの生活は厳しく、Eqoは学校でヘブライ語を学ぶのに苦労した。

Eqoには真の祖国と呼べる国がない。幼少期はスペイン語で育ち、ヘブライ語は学校で学び、英語はオンラインで学んだが母国語と感じているものはない。

Eqoがコンピューターゲームをしていない時間のほとんどは父親と一緒に過ごしていた。食事にでかけ、新たな場所へ行き、世界の様々な側面や人生について学んだ。

父親に教えられた最も重要な教訓は自分の夢を追い「決してお金ではなく、自分の好きなことをやりなさい」だった。それは家族を養うために自分の愛した芸術を捨てた男の言葉だったが、父親がEqoにビデオゲームを禁じることはなかった。

2014年、Eqoが15歳の時に最愛の父が他界する。

父親が末期癌であることが分かった時、Eqoは大きな虚しさを感じ、友達もいなく、兄や母親とも離れて生活していた彼は、現実から目を背けるために自分の殻に閉じこもるようになる。

父親の病状を受け入れることができなかったEqoはますますコンピュータゲームにのめり込むようになる。父親の病状が悪化するたびに彼はますます父親と距離を置くようになった。

「後悔してる?」、その時のことを聞くと、「ああ、でも時間は取り戻せないでしょ?」彼はそう静かに答えた。

父親の葬儀ではじめて泣いた彼は、その後、前に進み続けるための強さを見出し、自分が目指すもののために自らを捧げるようになる。

父の死から数年後にオーバーウォッチをプレーしはじめ、彼の最初のシーズンはランクマッチでトップ100、次のシーズンではトップ50、サードシーズン終了時には異なるアカウントで1位、3位、4位という成績を残した。

この成績を残した時にEqoが使用していたコンピューターは乱戦時に辛うじて30FPSが出せるくらいの代物であり、イスラエルからのピングは180だった。

そういった環境の中でも頭角を現していたEqoはComplexityにリクルートされ、やっとまともなコンピューターを手に入れることになる。彼は一度にレベルが10も上がったように感じたとその時のことを話している。

昨年のワールドカップ予選でイスラエル代表は敗退するものの、彼のゲンジは観る者を魅了し、ドイツ戦に敗れた後にはEqoはイスラエル代表のスターと評価する者もいた。

Bazooka PuppiezでプレーしていたJacob “PsychoWaffle” Oyerはプロシーンで最もハードワークするプレイヤーであるとEqoを評価しているが、Eqo本人も、才能に恵まれた人間ではないが、自身がハードワーカーであることを自認している。

Eqoはトップティアーのプレー経験こそないものの、フィラデルフィアのトライアウトでは名立たるプレイヤーを凌ぐパフォーマンスを見せ、トライアウトでは最も印象に残る選手だったとコーチ陣も話している。チームが最後のロスター枠として彼にオファーを出したのは、その4日後だった。

ハードワークするモチベーションはどこから来るのか問われた彼はこう答えている。「自分にはほとんど何も残されていない。親友だった父親を失い、オーバーウォッチだけが僕に残されたものだ。だから僕は誰よりもハードワークする必要がある。そうしなければ僕には何も残らないだろう」

”https://www.reddit.com/r/Competitiveoverwatch/comments/81a2pa/eqos_long_road_to_pro/?sort=top”
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